映画【LAMB/ラム】ネタバレ考察|父親はどっち?結末の意味は何?

洋画
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『ミレニアム』シリーズで主演を務めたノオミ・ラパスが制作総指揮をとり
第74回カンヌ国際映画祭の〖ある視点部門〗を受賞した
衝撃作【LAMB/ラム】

視聴者がどんな視点で見るのか・・・によって
いくつかの解釈が出来る映画なのではないでしょうか。

父親は誰?

ラストの描写はどういうこと?

そんな気になる疑問について綴ってみました。

★アダの父親は誰か?
★結末の意味と解釈
★本作のテーマとラストのその後

について触れています。

あくまで一つの推察としてご覧いただけたらと思います。
誰かの気になるお悩みのヒントになりますように!

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【LAMBラム】あらすじ

アイスランドの山間部で羊飼いをして暮らすイングヴァルマリアの夫妻。
その年は羊の出産が多く安定した生活が送れそうだった。

そんな折、いつものように羊の出産に立ち会うと
産まれてきた赤ちゃんを見て驚愕するイングヴァルとマリア。

二人はその羊の子を自宅に連れ帰り、
『アダ』という名をつけ、大切に育て始めることに。

羊の母から取り上げて育てているその赤ちゃんは特別だった。

羊の顔でありながら人間の身体を有していたのだ・・・。

キャスト
ノオミ・ラパス、ヒルミル・スナイル・グズナソン、
ビョルン・ヒーヌル・ハラルドソン 他

〖LAMB/ラム〗の視聴方法

Amazonプライムビデオ(プライム会員は見放題)

DVDも発売中

U-NEXTでノオミ・ラパス主演の『ドラゴンタトゥーの女』が見放題

本記事の情報は2024年1月時点のものです。
最新の配信状況は各サイトにてご確認くださいませ。

以下、作品のネタバレが含まれます。
未視聴の方はご注意くださいませ。

アダの父親は誰?

キャッチコピーは〖禁断が生まれる〗

この『禁断』とは『アダ』のことであり
その所以は羊と人間のミックスであるという点です。

そうなると父親の存在は、最後に姿を現す羊の頭と人間の身体を
持つ獣人なのか?

あるいはマリアの夫、イングヴァルか?
どちらと推察することも可能な描写であるように感じました。

冒頭で羊たちが何者かに怯え、逃げ遅れた一匹の羊が倒れるシーン
が映し出されます。

この時が倒れた羊がアダを身ごもった瞬間なのでしょう。
しかし何者かの姿は謎のままでした。

本作を手掛けたヴァルディミール・ヨハンソン監督は
アイスランドの民話をふまえたといいます。

民話ではクリスマスの夜には何かが起きたり、
ミサで無人となる民家に訪れるのは『魔』なのだとか。

アダの父親は獣人である

アダの父親がアダと同じ羊の顔を持ち人間の身体も有する
獣人であるという場合。

アダが初めて獣人の姿を目にした時、
あの姿は自分と同じである・・・と確信したことから
ラストで育ての父イングヴァルと引き離されようとも
抵抗をせずついて行くことも自然だったといえるでしょう。

しかしながらそうであるとすれば一つだけ
違和感を覚えることがありませんか?

アダを連れ戻すため・・・が獣人の理由とするならば
イングヴァルと牧羊犬をあのような
無残な殺し方をする必要があったのでしょうか?
しかも子どもの目の前で。

そこが腑に落ちません。

実はイングヴァルが父親である

〖禁断〗と聞いてまさか・・・と勘ぐってしまった方も
多いのではないでしょうか。

それはイングヴァルがアダの本当の父親であるという説です。

本当の娘を亡くして以来、変わってしまった夫婦仲。
仲睦まじく暮らしているものの、心の距離感は半端なかった
のではないかと思うのです。

アダを迎えてからでさえ、悪い回想に苦しめられるイングヴァル。
それでも夫婦の距離が埋められないイングヴァルは
クリスマスのあの夜、『魔』がさしてしまったのです。

そして罪が浮き彫りになるように獣人となって
産まれてきた我が子のアダ。

マリアが就寝中に1人で羊小屋に居た怪しい光景と
アダが誕生した後、1人で泣いている姿
イングヴァルが父親であることの裏付けととることも
出来なくはありません。

〖LAMB/ラム〗のストーリーを分析

羊の一面を持つアダを我が子として育て始めた夫妻。
その結末にはどんな未来が待ち受けたのでしょうか。

結末について

マリアの秘密をネタに脅迫まがいの脅しをしてしまったぺートゥル
マリアに追い出されるはめになります。

寝ていたイングヴァルに内緒でペートゥルを送りに行くマリア。
抗うこともなくすんなりバスに乗りこむペートゥル。

一方で目覚めたイングヴァルはアダと共にトラクターの修理に向かいます。
そこへ現れたのが獣人男でした。

その男はイングヴァルを銃殺すると
アダの手をとり去っていきました。

帰宅したマリアは家の中に誰も居ないことをさとり
夫とアダを探しに行き、撃たれた夫を発見します。

夫は撃たれ
アダは連れ去られてしまった・・・

そう悟ると空を仰ぎ一人きりになってしまったマリアでした。

結末の意味と解釈

アダの父親は獣人男かイングヴァルかどちらの解釈も可能なのでは
ないかと先述しました。

その理由の一つに羊飼いにとって大切なはずの(母)羊をいとも簡単に
手に懸けたマリアの方ではなく、イングヴァルが(牧羊犬も)
残酷な殺され方をしているという点がありました。

しかし、この結末はやはり獣人が父親である⁈という解釈になり得て、
子どもを思う父性の強い獣人の心情からすれば
自然な成り行きだったのかもしれません。

マリアも獣人男もお互いに母羊と夫を手に懸けています。
2人の行動に共通していたのは喪失感への恐れと
大切なものを奪おうとする者への怒り

獣人の立場から見たらイングヴァルは我が子を奪う邪悪なもの
なのです。

イングヴァルの喪失感

そしてふと思いました。

人間の娘アダはイングヴァルの本当の子どもではなかったのでは
ないか?・・・と。

マリアとペートゥルのただならぬ関係を匂わす距離感も、
イングヴァルがペートゥルに『俺たちの幸せを壊すな』というような
台詞で詰め寄るのも、1人でたたずんだり、泣いたりしている姿も
腑に落ちるのです。

もしもイングヴァルには子どもができないとしたならば。

マリアに愛情深いイングヴァルに対し、マリアが
幸せや愛情を深く感じる対象は娘でした。

しかし自分にはその幸せを与えてあげることは出来ない。
娘も守ってやることが出来なかった。

娘がいなくなってから時間が止まってしまったマリアにイングヴァルは
喪失感を感じていたのではないでしょうか。

本作のテーマとラストのその後

喪失感にさいなまれた時、人は
どうすればいいのでしょうか?

難しい人生のテーマです。

マリアは我が子を失った喪失感を共有できる人が
傍にいながら、共有することを避けたように思えます。
そして
異質な獣人に頼り、その異質さに目をつむって受け入れることで
心の穴を埋めました。

しかしその行動は羊のアダを娘のアダの身代わりにしたに過ぎず、
その結果、夫もアダも自分さえも幸せにはなれませんでした。

あのラストの後はどうなるのでしょうか。

マリアはきっと自分のエゴの結果、招いてしまった悲惨な
状況にやっと目が覚め、喪失感を埋めるのはこんな方法ではないと
気付き、アダを諦めるでしょう。

もしかしたら奇跡が起こりイングヴァルの子どもを身ごもり、
その時にさらなる後悔の念と罪悪感に襲われてしまうのかもしれません。

しかしながらアダの方はどうでしょうか。

連れて行かれるその時までは、獣人よりもイングヴァルを
気にしているように見えました。

自分の姿にショックを受け、自分はマリアたちの子ども
ではないことを悟ったかもしれないアダは、それでも
育てられた家や両親こそがアダにとっての真実なのであり
アダにとって異質なのはむしろ獣人との生活の方なのではないでしょうか。

イングヴァルがラストの直前にアダに教えた自宅への帰り道を
アダは忘れないように懸命になるのかもしれません。

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〖LAMB/ラム〗を見た感想

本編を通して台詞が少な目な演出の効果で
様々な想像や解釈を楽しめました。

広大な自然が美しく、羊を筆頭に、犬や猫など、可愛いらしい
動物が登場していて癒されます。
しかしその一方で、彼らがこの夫婦をどんな気持ちで
眺めているのか?勘ぐらずにはいられません。

自分ではどうにもならない喪失感にさいなまれた時
どうすれば良いのかなんて答えは出ないし、
果てしない時間の要する難しい問題でしょう。

ついつい身代わりをたててしまうという行為に
至る人を責めることなどできないかもしれません。

しかしながら羊たちからしたら
羊飼いでありながら、自分の都合で簡単に命を奪う
という自分勝手な行為は軽蔑に値するものでしょう。

牧羊犬もアダだけは他の羊のように扱わないのです。
目の前に居るのが羊であるとわかっていながら
オーナーである夫妻が娘だといえば娘として対応する、
そんなワンちゃんは何を思っていたのでしょうか。

序盤では獣人を恐れる素振りを見せていたものの、
アダが傍にいた際にはオーナーの娘を守るかのように
立ち向かっていった牧羊犬。

そんな風に見えて心が痛みました。

動物たちの方がよっぽど命という大切なものを
理解しているのかもしれないですね。

心に何かがぐさっと突き刺さる

そんな一作でした。

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