奇作『哀れなるものたち』の結末はどうなる?原作にはない衝撃のエンディングとは?

洋画
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第96回アカデミー賞で主演女優賞をエマ・ストーンが受賞したほか、
計4部門の受賞に輝いたSFロマンティック・コメディ映画
『哀れなるものたち』

原作は1992年に発表されたイギリスの小説家アラスター・グレイ氏の
同名小説。

メガホンを取ったのは『女王陛下のお気に入り』『ロブスター』などで
お馴染みの鬼才ヨルゴス・ランティモス監督です。

しかし本作は監督のオリジナル作品ではないことから
変態チック・・・奇怪な描写はないであろうと思ったそこのあなた。

安心してください。
本作もちゃんとやばいですよ!(笑)

そして原作にはないヨルゴス色が主張する場面もはっきり描かれています。
それがラストシーンなんですね。

そんな結末について解説、考察しています。

この記事のポイント
『哀れなるものたち』結末の意味とは
エンディングに込められたメッセージを考察

正解ではありませんが一つの解釈として
誰かの〖気になる〗のヒントになれば幸いです!

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『哀れなるものたち』あらすじ

19世紀末、1人の女性が橋から身投げします。
しかしその女性の亡骸を発見した外科医のゴッドウィン・バクスター(以下、ゴッドと記載)
は彼女を蘇生させることに成功します。

ゴッドの自宅にはベラという若い女性が同居していました。

ある日、ゴッドの講義に参加していた医学生のマックス・マッキャンドルス
ゴッド自ら助手に任命されます。

ゴッドの家に出向き、ベラと出会ったマックスは、
彼女の野性的な食べ方や、不自然な歩き方、トイレにも行けない
その姿を見て美しい痴人だと思ったのでした。

ベラは一目で、マックスの気になる存在になりました。

ゴッドはそんなマックスに、
住み込みでベラの観察を引き受けて欲しいと願い出ます。

ベラの食事や覚えた言葉など、身近で観察の日々を送るうちに
マックスの興味はベラ自身へと深まっていきました。

そして気になるのがベラは何処から来て何故ゴッドの家に居るのか?
2人の関係は何なのか?という疑問でした。

マックスがゴッドに疑問を問い詰めると、驚きの事実が判明するのでした・・・。

キャスト
エマ・ストーン、マーク・ラファロ、ウィレム・デフォー、ラミー・ユセフ、
クリストファー・アボット、マーガレット・クアリー、ハンナ・シグラ 

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以下、結末までのネタバレを含みます。
未視聴の方はご注意ください。

本記事の情報は2024年10月時点のものです。
最新の配信状況は各サイトにてご確認くださいませ。

『哀れなるものたち』結末の意味とは

身投げした女性が身ごもっていた
赤ちゃんの脳を移植されたベラの成長譚とも言える本作。

その結末には何が待ち受けるのでしょうか。

衝撃のラストシーンをネタバレ解説

弁護士で遊び人のダンカンと駆け落ちすることを決め、
外の世界に飛び出したベラは、それまでの
ゴッドの支配下から抜け出し、自由を手に入れます。

パリで過ごしていたベラはその後、自分が幸せになれる
〖熱烈ジャンプ〗をダンカンと楽しみますが、軽い付き合いを望んでいたはずが、
束縛心が生まれ、嫉妬にかられたダンカンとの関係は悪化の意図を辿りました。

その後、娼館にて自分で生計を立てることを習得したベラでしたが、
ゴッドの体調が悪化したことにより、自宅へ戻ることにしました。

娼館で仲良くなったトワネット腹部の傷跡が妊娠線あることを指摘された
ベラはゴッドに子どもの居場所を尋ねるのです。

そうしてゴッドは真実を語り始めます。

ベラはゴッドの隠し事や罠に動揺を見せつつも、生きることは楽しいとし、
それを与えてくれたゴッドを理解し許しました。

そして当初の予定通りマックスと結婚することを決めたベラでしたが、
式の当日、ベラの正体であるヴィクトリアの夫アルフィー・ブレシントン将軍
ダンカンに連れられて乱入します。

アルフィーと共に帰ることを決めたベラは、ヴィクトリアが、
夫の支配的て暴力にまみれたその環境を苦にした身投げをしたのだと
察します。

衝撃のラストは映画オリジナル

アルフィーは、記憶のないベラを屋敷に閉じ込め、
性器の切除を画策していました。

抵抗したベラと銃を持っていたアルフィーがもみ合ううちに、
銃弾はアルフィーの足を貫きました。

負傷したマックスの元へアルフィーを連れて行くと、
死なせないで欲しいと言い、ゴッドの脳手術の資料を持ってきました。

一方で、ゴッドはマックスとベラが寄り添う中、静かに息をひきとりました。

庭園で本を読みながら優雅にワインをたしなむ時を過ごす、ベラとマックスと
パリから来ていたトワネット。

その傍らにはゴッドによってベラ同様に作られたフェリシティと使用人の女性
そして、草を食べるアルフィーの姿がありました。

負傷して担ぎ込まれたアルフィーは山羊の脳を移植されていたのでした。

『将軍に水をあげて』
とほほ笑むベラでした・・・。

それはアルフィーへの復讐ではない

負傷したアルフィーをマックスに託したベラの望みは
〖死ぬのを見たくない〗
ということでした。

しかし、元気になればまたベラを支配しようと画策することを
危惧したマックス。

生かして心を入れ替えさせるその両方が叶う術が
山羊の脳を移植することだったのです。

皆が幸せになる世界を望んだベラに他意はなかったのでしょう。
それは復讐ではありませんでした。

以前は人間は動物よりも尊く、その命は特別であると考えていた
ベラも、実は人間だって愚かで残酷であることを認識していきました。

アルフィーもまたヴィクトリアを追いつめたことにとどまらず、
ベラに対してもまた力での支配を試みようとする醜い心の哀れな人間でした。

だから山羊の脳を移植されたアルフィーをベラは哀れだと思うのか?
その答えはノーなのではないでしょうか。

ラストのベラのほほ笑みの裏には
山羊の貴重な命をもって救って貰えたアルフィーは
幸運だという思いがあったのではないでしょうか。

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エンディングに込められたメッセージを考察

結末まで傍観して、思うのは
〖哀れなるものたち〗とは一体誰だったのか?
ということ。

大きく言えば、社会の常識に囚われ、自由を謳歌できない人間とは哀れなものだ
ということなのでしょう。

そしてその背景には生まれたその時から植え付けられる先入観や常識
などの自分の考えとは無関係に刷り込まれた〖正しいとされてしまったこと〗
があります。

一方でゴッドの実験台だったベラは実験という名のもとに
常識も信仰心も先入感も植え付けられることはありませんでした。

本当の両親は探検家だったという嘘を除いては。

そしてその嘘に感化されるようにベラは外の世界に興味を抱き始め、
ゴッドの元を離れて行くのです。

これまでゴッドに守られゴッドだけが生きるお手本であったベラにとって
自由とは刺激であり変化であり自分だけのルールでした。

さらにベラは外の世界が、あまりにも不条理で残酷であると知ります。

人間はそんな残酷な世界で、どうにもならないことには目をつぶる。
それが人が教えられてきた生きる術だから。

ところがベラならではの無垢な視線でみた世界は同じように不条理で残酷
であったとしても、無条件で諦めることはしないのです。

それは全ての人が、諦めずに探求していく自由があるべきだと
信じるからなのではないでしょうか。

原作のテーマを映画がどう表現したか

原作の一部分に焦点をあてて映画化された本作は、
原作ではマックスが見てきた世界です。

しかしながら本作はベラの視点であり、見たり体感したことにより
人格を形成した成長譚です。

誕生したまま、何も情報を与えられなかった脳が
本能から幸せになることを求めた時、
それは非常識とされ非難の目にさらされてしまいました。

幸せになりたいと思うことは恥ずべきことなのか?
逆に絶望を受け入れ幸せを探求することを諦めることの
方が哀れなのではないか?

そんなメッセージであるかのように感じました。

ゴッドウィンはいわばベラの絶対的な存在であり、社会の常識でした。

その場所から目覚めたベラは欲求を知り、自由を得たのです。
しかし楽しいことばかりではなく、この世界は不条理が蔓延している
ことも目の当たりにします。

だから子どもも大人も男性も女性も貧富も関係なく
平等な社会が望める理想郷を描きました。

その結果がラストの優雅なティータイム(ワインタイム)なのでは
ないでしょうか。

そこには2人のパートナー(マックスとトワネット)がおり、
使用人もベラにタメ口を利く(階級を重んじていない)平等な
空間
と、読書で知識を得ながら、お酒を飲むという欲求も果たす
少しちぐはぐに見える相反した行動。

それがベラの描いた自由なのです。

とはいえ、ラストの場面でアルフィーが山羊の脳を移植された
場面を平等だと、理想だと言えるのかというのはまた別のお話
なのかもしれません。

ベラはこれから医学の道を歩むというまだまだ発展途上にある
人間であり、完璧ではありません。

そのように、自由を掲げて権力を持ったものが
もし完璧ではなかったならば、それは既存の社会システムの破綻に繋がる
危険因子にもなり得るという警鐘でもあるのではないでしょうか。

そして周知のとおり、完璧な人間など存在しないのです。

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『哀れなるものたち』まとめと感想

どのくらいのベラの言動や行動に異論を唱えたくなったでしょうか。

その値が大きいほど、我々が社会の常識や先入観にとらわれている
という証なのかもしれません。

ともすれば〖哀れなるものたち〗を指すのはどのキャラクターなのか?
なんて考察している自分こそが〖哀れなるもの〗なのかも
しれませんね。

常日頃、当たり前に受け入れていることを
この機会に違う角度から考えられたら今まで見てきた
世界の景色が変わるのかもと思いました。

そんな発見も詰まった作品だったのではないでしょうか。

ゴッドは実父に実験台にされるという残酷な人生を生きながら、
父を憎むこともなく、常に前向きな姿勢で、
腐らず、自身も医学の道へ進み、ベラを生き返らせました。

その強さや優しさはどこから生まれるのだろう。

そして人生の終わりにも恐怖をするどころか興味を抱いているという・・・。
しかし個人的にはあれは、悲しむ娘に対する気遣いで
強がってみせたのかな?とも思いました。

実験でボロボロになったゴッドの容姿を怖がる人達の視線を感じる中で
無垢なベラは彼を頼って愛情を注いでくれました。

それは先入観がなかった感情とも言え、
何より目の前のゴッドが自分に注ぐ愛情を感じ取れたからに
他なりません。

赤ちゃんや動物は相手が自分に抱く感情に敏感なのだという
説もありますよね。

ちなみに山羊も自分に良くしてくれる相手と悪意をむけてくる相手
の顔を見分けることができるのだそうです。

本作は数々の賞を受賞し、鑑賞者にすばらしい、と賞賛される
作品となりました。

今回は制作にも携わったという主演のエマ・ストーンが
ここまでの演技を披露されるということだけでも必見かもしれません。

でも・・・残念ながら誰かと一緒に見るのは気まずくなりそうな
一作です(笑)



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